睡眠時間の大切さを知った。最近、思考力が低下している感覚があり、とても困っていた。忙しさのせいもあり5時間睡眠の日々が続いていたのだが、久しぶりに7時間半寝てみた。すると、同じ人間とは思えないほど思考がクリアになった。結果として物事を効率的にこなせるようになったので、ムダな時間も減った。これからは7時間半睡眠で行こう。

栄養ドリンクって意味あるんだろうか。最近忙しい日々が続いているので、毎日リポビタンDを飲んでいる。朝にコンビニで買って駅のホームで飲む。150円と結構高い。しかし、飲まないでやっていけるか分からないので義務感のように飲んでいる。プラシーボ効果の感があるが聞くのだと信じて飲み続けるしかないのだ。

電車で座ってる時、僕が恐れていることがある。それは、目の前に立っている人に、僕が次の駅で降りるのだと勘違いされることだ。
電車がホームに到着するくらいのタイミングでうっかり鞄に手を伸ばしてしまうことがある。そうすると、目の前に立っている人は「降りるのか!ラッキー」と思うはずだ。
でも、僕は降りない。ただ、鞄に入っている本を取り出したかっただけなんだ。
その時の立っている人の心に生まれる、黒い何か。想像するだけでも恐ろしい。
だから、駅に到着するくらいの時はいかにも「まだ乗り続けますけど何か?」的なオーラを出せるよう精一杯頑張っている。

何を書いたかわからなくなることが良くある。今日はマウントレーニアを飲んだのでそれについて書こうと思っていたのだが、既に書いてあることがちょうど今判明した。自分の思考の狭さに気付かされ悲しんだ。この程度の分量で思考のループが一周してしまうとは…

プレゼンって難しい。僕は苦手だし、経験自体も多くはない。

最近プレゼンを見る機会が多くある。当然上手い人と下手な人が混在しているわけだが、上手い人に共通するポイントを一つ見つけた。

それは、聴衆を意識しているということだ。逆に、下手なプレゼンターは聴衆を意識しないで一人の世界で完結してしまっている。

下手なプレゼンターのプレゼンは映像で撮ったとしても問題がないと思う。逆に、上手い人のプレゼンは映像で残したとしたら、訳がわからなくなるはずだしわからなくなるべきだ。というのも、プレゼンというのはプレゼンターと聴衆が織りなす場の空気を感じて変えていくべきものだから、その場の空気を共有していない、映像だけを見た人には、伝わらなくてしかるべきものなのではないだろうか。

感覚を言語化することの難しさを最近思う。例えば、中華料理屋に入った時に「エビチリを食べたい」と思うとする。僕は今「エビチリを食べたい」と書けているし、もしその場に友人がいたならば「エビチリを食べたい」と言うこともできるだろう。その意味では「エビチリを食べたい」という感覚を言語化し伝えることができていると言えるのかもしれない。

だが、「エビチリを食べたい」というこの感覚は「エビチリを食べたい」という言葉では4%くらいの正確さでしか伝えられていないのだという感覚がある(この感覚ももちろん言語化することはできない)。

僕は言葉にすることと思考することは同一のものだと思っている。その意味で言葉にできていないということは、「エビチリを食べたい」という自分をほとんど理解できていないということに等しいと思う。だから、悔しいし、感覚を言語化することができる人になりたいと思う。

世界には2種類の人がいると思う。自分が持つ承認欲求を自覚している人と自覚していない人だ。私は後者に属する人間だと思う。

承認欲求の強さを自覚していない人間は厄介だ。承認欲求に起因するあらゆる行為に他の原因をあてがってしまう。例えば、見返りを求めずに何かを教えてあげるという行為。〇〇君の役に立てるならそれだけで十分なんて言ったところで綺麗事である。教えることによって承認欲求を満たしているに過ぎない。

逆に、承認欲求を自覚できている人は美しい。自分が人から認められることに快楽を覚える動物なのだと悟って生きる人の人生に綺麗事が挟まる余地はない。常に自分に対して正直に生きていける。そういう人に私はなりたい。